ユーゲントシュティールの芸術家村マチルデンの丘

ダルムシュタット

 

 

ユーゲントシュティールの芸術家村がフランクフルトの近くダルムシュタットにある。

 

ユーゲントシュティール様式

 

ドイツのユーゲントシュティール(ドイツ語、ユーゲント=青年、シュティール=様式) は、フランスとイギリスではアールヌーボー(アール=美術、ヌーボー=新しい)と呼ばれ、19世紀の末から20世紀の初めにかけて、絵画・彫刻のほか建築、室内装飾、家具デザイン、織物、印刷物から文学・音楽などに取り入れられた。

 

ドイツ語のユーゲントシュティールは1896年に創刊された雑誌「Die Jugend、ディー ユーゲント」から来ている。

この年次に注目していただきたい。様式の名前がとられた雑誌の初出版が1896年、そして、後述するが、ウィーンの分離派が結成され、その展覧会場である分離派館が完成したのが1898年である。一方、ダルムシュタットで芸術家村が結成されたのがその1年後の1899年、そして第1回、10棟の建物を含めた、数多くの工芸品が出展された展覧会が行なわれたのが、2年後の1901年である。

こうみてみるとダルムシュタットが当時のヨーロッパ知識人の注目を集めたことは想像に難くない。

 

ユーゲントシュティール様式の特徴

図 ガレの花瓶、  1900年

 美術、工芸デザインに見られるユーゲントシュティールの特徴は、一方では植物の有機的な形から取り入れた長くゆるやかな曲線であり、さらに直線平面を強調したやや非左右対象の傾向のある幾何学的な模様で、工芸品では高級な、しばしばエキゾチックな材料でほとんど完璧な技術の作品は、貴族趣味の芸術品といった傾向がある。

 

 ユーゲントシュティールへの影響として、まぎれもなく日本の木版画、浮世絵があげられ、またフランスの後期印象派があげられるが、一方ではイギリスの新しい工芸運動「アーツ アンド クラフツ」の動きからも影響をうけている。(フランスでは印象派の反動としてアールヌーボーが発展していった。)

 

 ユーゲントシュティール様式(アールヌーボーとは違うという人もいるが、そういった論争は学者にまかせるとして)の世界的に有名な人として:

 ‐ ガラス器のガレ(Emile Galle)/フランス

 ‐ 花瓶、ランプシェードのティファニー/アメリカ

 ‐ 曲線とモザイクタイルの建築家ガウディー/スペイン

 ‐ パリの花模様のある地下鉄入り口、グマー、18981901年/フランス

など、言われてみれば記憶にある人が多いであろう。

 

エルンスト ルードビッヒ

 ヨーロッパで当時最高の芸術家を集めてダルムシュタットに芸術家村を建設したのは、ヘッセン大公、エルンスト. ルードビッヒである。

 

 彼の家柄がすばらしい。エルンストは、ヘッセン大公のルードビッヒ4世と、母はビクトリア女王の次女アリスの長男である。すなわちイギリスのビクトリア女王のお孫さんである。また、1917年ロシヤ革命の犠牲としてロシヤ皇帝の最後となった、ニコラウス2世の皇后アレクサンドラは実の妹である(皇后アレクサンドラも革命の犠牲となった)。イギリスの皇室とロシヤ皇帝が親戚である。ヨーロッパの貴族はすごい。

 

 エルンスト.ルードビッヒは母からイギリス式の教育をうけて育った。支配者とか政治家というよりも詩を好みドラマを書いたりした芸術家であり文学者であった。イギリスを行き来していた芸術に関心の深い若いエルンストが当時イギリスでおこった新しい工芸運動「アーツ アンド クラフツ」に強い関心を寄せたのはごく自然の成り行きといよう。

 

彼はこういった運動をとおして、ヘッセン州に古くからある家具工芸品の手工業が機械化の波におされて緊迫した状態にあるのを救おうと考えた(さすが1国の王である)。すなわち新しい感覚の芸術家を集め、その作品によってヘッセン州の工芸品の品質を向上させ手工業に活力を与えようと考えたわけである。

 

エルンスト ルードビッヒは展覧会を開催して芸術家達の作品を公開する予定である。食器、衣類、家具、建築をふくめた総合美術の展覧会である。そのためマチルデンの丘、ほぼ一万平米の敷地を会場用地とし、また芸術家達の作業場と住宅のために用意した。 

 

 ダルムシュタットでは展覧会が1901年から04年、08年、14年と短い間に4回の展覧会が行なわれている。

 

オルブリッヒ

 ダルムシュタットの芸術家村には第1期、建築・美術・工芸家7人が集められ、総責任者として指名されたのがヨセフ マリヤ オルブリッヒである。

 

 オルブリッヒはウィーンで活躍していたオーストリア人である。ヘッセン大公とオルブリッヒは同い年であり、大公は終始良き理解者であった。オルブリッヒがダルムシュタットに来たときは32歳の若さであった。 

 

 オルブリッヒは第1期に集められた芸術家の中で唯一の建築家である。1898年ウィーンで設計したセセッシオン(分離派館)によって、ヨーロッパではすでにユーゲントシュティール様式の第一人者であった。(同期にペーター ベーレンスがいるが、彼はグラフィック デザイナーとして招聘され、建築はここではじめた。)

 

図 : 結婚記念塔と展示場、オルブリッヒ 1908年

 しかしダルムシュタットでのオルブリッヒはあまり幸せではなかった。エルンスト.ルードビッヒ大公から絶大の信頼をうけ、またチーフが外国人であるということからねたみややつかみをうみ敵も多かった。妨害や誹謗は、仲間からだけではなく、役所や政治家、評論家などから受け、話し合うべき友人はほとんどいなかった。また、オルブリッヒのデザインの新しさは、反面見慣れないものとして批判の対象となり、A.コッホのような雑誌を出して影響力の強い出版社長はなにかにつけて反駁した。それが彼の命を縮めたのかもしれない。ダルムシュタット最後の展覧会の年1908年、オルブリッヒは41歳の若さで亡くなっている。

 

 オルブリッヒのダルムシュタットでの活躍はすばらしい。1901年の初回の展覧会までの期間がわずか1年ちょっと、その間に共同アトリエの大公館と仮説パピリオン、それに住宅6戸を完成している。それもすべて展覧会のための全く新しい様式で室内装飾までを設計している。

 

 ダルムシュタットで製作したオルブリッヒのもっとも有名なものは、ヘッセン公の結婚記念塔であろう(1908年、第3回展覧会)。5本の指を伸ばしたようなマチルデンの丘に聳えるこの塔は、ダルムシュタット市のシンボルマークとなっている。また、横に強調する窓のデザインがはじめて取り入れられた建築史上でも有名なものである。

 

建築様式について:

わが国には時代によって建物様式が変わる風習が少ないので、古い建物を見てそれが何時の時代のものか判別が難しい。それに反してヨーロッパではロマネスクとかゴシックなど建設時代によって建築様式が異なっている。

 

 ユーゲントシュティール様式の表れる以前の様式といえば、バロックが終わる1730年頃、ローマとパリでネオクラシシズム(新古典主義)が生まれ、その後ドイツ、オーストリアでもこの様式が取り入れられ、ネオゴシックとかネオルネッサンスなどいろいろな古典様式の模倣がおこなわれるようになった。しかし、それは畢竟ギリシャ・ローマの建築様式の分析模倣であった(有名な建築家としてはベルリンのシンケル、ドレースデンのゼンパーなどがあげられる)。

 

 ユーゲントシュティール様式初期の有名な建物では、オルブリッヒのウィーンの分離派展覧会場「分離派館」、1898年、がある。分離派とは古い伝統や習慣にこだわる伝統芸術、すなわちそれを代表する芸術家協会からの分離を意味し、より純粋な芸術を求める若い芸術家達の造反運動であり、ウィーン分離派、ミュンヘン分離派などがある。オーストリアではこの分離派をセッセシオンといい、ユーゲントシュティール様式をセッセシオン様式とよばれている。

 

 当時のウィーンはオーストリア・ハンガリー帝国の首都であり、人口150万人をかかえる工業発展期のめざましい都市であった。ウィーンの1850年代といえば、アドルフ ロースやオットー ワーグナーなどヨーロッパ建築の中心地であった。そうしたウィーンで彼の師ワーグナーをさしおいて新しい運動の中心建設物「分離派館」をつくった若いオルブリッヒは,やはりその才能が先輩達の間でも認められていたのであろう。

 

芸術家村マチルデンの丘の現在 1、E.ルードビック ハウス(ユーゲントシュテイ−ル博物館) 3、オルブリッヒ邸 4、ベーレンス邸 5、グルッカート ハウス1 6、グルッカート ハウス2 11、結婚記念塔 12、展覧会場 23、ロシヤ教会 24、プラタナス公園

 そのオルブリッヒを、まだ文化の片田舎であったダルムシュタットに呼んだことは、オルブリッヒにとって大きな犠牲であったに違いない。実際、同時にパリから呼ばれた画家クリスチアンゼンの夫人の手記に「パリを去ることは夫にとってそれほど簡単ではなかった。芸術家にとってパリほど多くの刺激を与えてくれる町がほかにあるだろうか。夫はまさしくパリを愛していた」。

 

 ヘッセン公は芸術家達をダルムシュタットに招聘する条件として充分な給与を保証し、(当時著名とはいえ芸術家の生活は不確定であった)、また、教授=プロフェッサーの称号を与えることを約束した(ヘッセン公はそんな権力を持っていた)。そういったことに加えて、作品の発表の場があたえられたことは、芸術家達のとって大きな魅力であったであろう。

 

ユーゲントシュティールの次にくるもの

 ユーゲントシュティール様式の建築は、簡潔であり機能を重視した形体が重んじられるが、そこには一回限りの芸術性、唯一無二のデザインが尊重され、装飾過多、貴族主義の批判を受けるところがある。

 

 家具とか工芸品においても、機械作業を踏まえた工芸とはいうものの、工場での大量生産、それによる廉価販売という庶民のための工芸という点において考慮がなかった。

 

 こうしてユーゲントシュティール様式は、その次に来る、即物性(ザッハリッヒカイト)を主張するバウハウス様式から「悪趣味、キッチュ」として退けられ、1914年第一時大戦を境に、短い幕を閉じたのである。

 

 いってみれば、長い間引きずってきたこれまでのギリシャ・ローマの伝統建築の絆を、ユーゲントシュティールによってやっと切り離し、次の新しい世代の近代建築、バウハウスに導いていった様式といえよう。

 

 工芸の近代化はイギリスのW.モリスを中心にした「アーツ アンド クラフツ運動」に始まった、といわれている。ダルムシュタットの芸術推奨者ヘッセン大公もこの運動に大きな関心を見せたが、時期はほぼ10年早く、ここではユーゲントシュティール様式の花が咲き、一方10年後のヘラーアウ(ドレースデンの近く)、そしてデッサウではバウハウスが開花した。

 

ダルムシュタットで4回にわたって行なわれた展覧会では、実際に家が建てられ街並みが作られた。展覧会場のマチルデンの丘は現在文化財に指定され、いまでも良好な街並みとして、使われながら保存されている。

 

ユーゲントシュティールをもう少し見たい方に近くのヘッセン州立博物館をおすすめする。ここにはブローチとかランプ、花瓶など、ため息のでそうな優美なものが展示されている。

 

(青梅市ホットマン社「ホットマン情報」、2001年1月、に加筆)

© 春日井 道彦

 

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